深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】
休日前の夜、「当てもなく」一人で居酒屋に入る方もいるでしょう。
何を飲み食いしたいわけでもない。仕事から解放された気分のままに、ふら~っと店に入る。そんな「当ての無さ」も、楽しみの一つです。
でも、「当ての無さ」に身を任せ過ぎると、いつの間にか日常から遠く遠く離れてしまって、帰り道すら分からなくなってまうことも、有るかもしれませんよ。
この話は、悩める或る男が、仕事帰りの一人居酒屋をきっかけに、不可解現象に巻き込た話です。
(分量は、文庫本換算13ページ程。次の目次をタップ・クリックでジャンプできるので、しおりの代わりにどうぞ。他の怪談怖い話は「本blog全記事の一覧」へ。)
或る夏の夕方。
多摩地方の一大都市から数駅離れた住宅街に有る、高架の駅ホームにて、俺(米津秀行・27歳・一応プロ家庭教師)は、次の仕事のため、電車を待っていた。
暑さ、じめじめ、セミのジリジリ鳴き声。夏の様相だ。
とは言え、日差しももうオレンジに柔らかい。昼間に比べると涼しいので、ちょっとは有り難い。
一方で、俺の悶々とした気持ちは、一つ前の仕事のせいで、ヒートアップしていた。
俺は、小説家を目指しつつ、多摩地方で家庭教師として働いていた。
各家庭には、「学生バイトとは違う」等と信頼の高まることも多かった。親御さんから、教育相談を受ける等、距離の近づくことも。
今、仕事を終えたのは、そんな家庭の一つ。
その家庭の、10歳くらい歳上の人妻さんに、俺は恋愛感情のようなものを持ってしまっていた。
もちろん、職業倫理は守る。不倫に発展して訴訟でも起こされたら、払える賠償金も持っていない。
そもそも、その人妻さんは、俺に対して、仕事を逸脱する言動を見せない。特には恋愛感情なんて抱いていないのだろう。
俺の本心は、せっかくの出会いを棒に振るのはもったいない気も。俺から気持ちを伝えずにいられないような。全体としては、俺一人、悶々としているようだ。
やがて、電車が到着、ドアが開く。俺は、ドア前に、邪魔にならないようにしつつ立つ。
次の仕事は、5駅隣だ。
ドア前が閉まって、発車する。
俺は、ぼんやりと、外を眺めた。
高架であって、多摩地方の平地を、地平線へと遠く見通せる。住宅街やスーパーが広がっている。もともとは農村だったのだろう、住宅の合間には、とびとびに広い畑も点在。
それらは、オレンジの日で、穏やかに染まっている。
飛び飛びに、丘も有る。大きな丘も、ちょっとした丘もさまざま。
中には、マンションがいくつも建っている丘も。
例の人妻さんも、あんな所に有るマンションに住んでいる。否応なく思い出してしまう。
思い出さないようにと、違うところに目を移す。
緑の茂丘が目に入る。木々の少ない草原エリアを、黄色っぽい獣が一匹で歩いていた。
あれは、まさか狐?数百メートルは離れているため、はっきりとは言えない。
丘には畑や数件の住宅も有るが、獣の周囲に、人はいない。
目で追っていると、獣は立ち止まって、顔を上げた。その瞬間、目が合った気がした。
まあ、遠くなので実際の目線は解らない。
その後、住宅街まっただ中の駅で降りて、浪人生の家庭へ。
そして、180分授業。
22時を回ったくらいに、終えた。この授業で、今日の俺の仕事は終わりだ。
駅へ向かいつつ、夏の今、暑さと仕事の疲れは、冷えた炭酸系のお酒を連想させずには、いられない。
今日は、金曜日。居酒屋等で飲んで帰宅しよう。
それから、俺は、自宅アパートへの途中駅、多摩の一大繁華街の駅に降りた。
何を食べたいというのはない。いつまで飲むという計画もない。要するに、当てのない一人飲み。
あちこち店を回るものの、金曜日の夕方だ。駅周辺のビルやらデパート内に、一人客の入れる余地は無い。
23時を過ぎた辺り。
歩き回った末に、駅から大夫離れた古い小ビル2Fに、席の空いている居酒屋を見つけた。入口のメニュー看板を見ると、焼き鳥や焼き魚等、焼く物の多い普通の居酒屋だ。
ここにしよう。
入ると、窓際席に案内された。
暗めの店内で、各テーブルを点々と照らすような灯りの配置。多少お洒落でありつつ、多少怪しさも有る。
客は俺の他に、数組。店員は、かちゃかちゃと食器を運んだりテーブルを拭いたりしているので、さっきまで客はいたのだろう。
窓の外を眺めた。古い中小ビルが並んでいる、二車線程の通り。自宅を目指していると思われる人、駅へ向かって歩いていると思われる人、さまざま。
どちらにせよ、家路だろう。俺はこれから一人飲みだ。この居酒屋の位置は俺にとって、終電を逃しても歩いて帰れる場所。問題無い。
俺は、店員を呼んで、焼き鳥の盛り合わせ、ホッケの塩焼き、お腹が空いていたので、じゃがバター二皿を注文。飲み物は、まずはビールだ。
それから、スマホで野球の結果を見たり、考古学雑誌オンライン版を見たり、小説案を考えたり、そしてあの魅力的な人妻さんのことを思い出したり。
時間が過ぎるのは早かった。すぐに0時を回る。他のテーブルも、一組また一組と退店していて、客は俺のみ。
居酒屋メニューでは一向に、お腹はいっぱいにならない。ラーメン屋にでも行こうと、立ち上がろうとした。
その時だ。
店員の「いらっしゃいませ。お一人様で」という声が響く。
そして、きっちりとしたネイビースーツ姿の美女が、姿を現す。俺より少し年上っぽい。
おっと。
俺は、浮かせた腰を、落ち着けた。
店内には、俺と一人のみの年上美女だけだ。
まあ、特に何事も無いだろうけど、怪しさ有る店内で年上美女と二人だけ。その雰囲気を味わえるだけでも、お得だ。
年上美女は、俺の斜め前方席へと案内された。
それから俺は、年上美女をチラ見しつつ、スマホをいじるふりをしていた。
スカートから伸びる締まった脚。危険な妄想は止まらない。
驚くことに、年上美女もまた俺を意識しているようだった。俺が年上美女の顔をチラ見すると、視線が合うことも多いのだ。
これは、何かを期待しても良いのか?俺は居座るために、店員を呼んで小皿と芋焼酎のソーダ割りを注文。
注文してから年上美女を見る。また目が合った。今度は、口元をにっこりほほ笑んできた。
俺はどう対応すれば良いのか解らず、ぎこちなく笑って軽く頭を下げた。
次に年上美女と目が合ったらどうすれば良い?
話しかけようか?
何の話しをする?
頭の整理が付くまで年上美女の方を見ないようにしたが、この手のことで、頭の整理は付くことはない。
一方で、年上美女がこちらを見ているという視線は、大いに感じた。プレッシャーにもなった。
しばらくして、店員が、年上美女のテーブルに料理を運んできた。
年上美女は、「窓際に移ってもいい?」と店員に聞く。
「どうぞ」という店員の声。
そして、年上美女は、俺の隣の席に。後に続く店員は、その席に料理を置いて、厨房に引っ込んだ。
店員が厨房に引っ込むと、年上美女は、俺に「どうも」と言ってくるので、俺はスマホをいじるふりを止めざるを得ず、顔を上げる。年上美女は、ほほ笑んで来た。俺は、「え?ああ…はい」なんて言いながら、頭を下げる。
彼女は、「このお店は、油揚げがおすすめよ」と続ける。
彼女のテーブルに、油揚げを炙っただけのもの、出汁醤油をかけたもの、ピザ風のもの、バター醬油のもの、などなど油揚げのフルコースだ。
俺がそれらを眺めていると、「食べていいよ。一人じゃ食べきれないから」と彼女。
まさか彼女の方から話しかけてくるとは。
整理の付いていない俺の頭は、余計にぐしゃぐしゃになった。とりあえず、「…この後、俺のテーブルに串焼きが来るんでどうぞ」とのみ、応える。
「じゃあさあ、そっちのテーブルに移るね」と言い、彼女は俺のテーブルに皿を移して乗り込んで来た。
その後、俺は年上美女と、一つテーブルでいろいろしゃべった。互いの仕事のことやら好きなお酒の銘柄等々。
楽しくなってきた。深い話しもできそうな雰囲気になってきた。酔った勢いだって有ったろう。俺は愚かにも、「魅力的な人妻さんに悶々としている」なんて言ってしまった。
年上美女は、不快な顔をせずに、笑いながら聞いてくれた。
そして、一通り聞いてくれた後に言ったのだ、「そんな君に、人妻さんを紹介してあげようか?」と。
「え?」以外に、俺は応えられなかった。
黙っている俺に、年上美女は続ける、
「友人にいるの。旦那に浮気されて、怒り心頭だったけど、許す代わりに、自分も一度浮気するって。
それでさあ、その彼女の好みって、君のような人なんだ。君をはじめて見た時からそう思ってたのよ」。
言われた俺は、期待もしてしまって、すぐに拒否をできなかった。それで、挨拶のように、「そんな。冗談言わないでくださいよ」とのみ言った。
年上美女は続ける、「まあいいでしょ。彼女とデートして、慰めてあげてよ」と。
仕事上果たせぬ恋心を抱えている俺。年上美女のことばに、人妻さんと遊べる期待は、湧き上がってきた。
当然ながら、同時に迷いも湧き上がる。浮気相手として訴えられたらどうする?
即答できずにいると、年上美女は「じゃあ決まりね」と言い、スマホを操作する。その女性に連絡しているのだろう。
まずい。俺の心は決まっていないのに。
俺は、「待ってくださいよ」と身を乗り出して、年上美女からスマホを取り上げようとする。年上美女は、俺の手をふざけながら払いのけたりして、取り合わない。
しばらくして、「じゃあ明日の夕方に○○団地ね」と言う。
いきなりの団地!?
その後。俺は当然、年上美女に断りを入れ続けた。年上美女は、「遊ぶチャンスは明日のみ」や「断ったら彼女(その人妻さん)は落ち込む」「彼女を立ち直らせて欲しい」なんて言うのだ。
結局は、「俺がその人妻さんと会って浮気はいけないと諭す」、で決着した。
仕事帰りの一人居酒屋のせいで、妙なことに巻き込まれてしまった。
その夕方(日付は変わらず)。
俺は、居酒屋近くのバス停で、乗車した。後ろの方の席に着く。
俺は、これから浮気をするのだろうか?期待と不安とないまぜだ。だが、その人妻さんの暮らす団地は、市街地を抜けた住宅街をも抜けたその先の山裾に有る。到着までは、時間が有る。多少、余裕も有る。
バスは、信号に引っかかったり、駐停車中の車をかわしたり、停車と発進とを、不規則に繰り返していた。
その内に俺は、うたた寝をした。
それから、ふと気が付くと、バスはスムーズに走っている。
窓からの眺めは、街のごちゃごちゃでは無い。ビルも、住宅も、信号も、時々点在する程度の二車線道路だ。
俺は、首を前に向けて、運転席の大きな窓を見通した。山が迫っている。さらに、その山裾に、5棟程の集合団地が見える。
俺の眠気は、ふっとんだ。
バスのアナウンスが有って、俺は降車ボタンを押した。
バスは停車。ドアが開く。ついに、団地前のバス停に降り立った。
バスは、山をさらに奥へと、出発する。俺は、その背中を見送る。遠くのカーブを曲がって、見えなくなった。
時刻は、18時を回っている。オレンジ色の空では、紫色のちぎれぐも雲が流れている。
風が吹く。迫る山の木々はザワザワ言う。セミの声は、うるさいとも感じないくらいに当たり前に続く。時々、鳥の声も響いた。草の青臭い匂いは、夏の湿気や暑さに混じって鼻をつつく。
街から離れて、ずいぶんと遠くまで来た気分だ。
視線を、道路を挟んで反対に移す。
並ぶ銀杏の緑の葉の間から、団地の白い棟は見える。子どもの遊ぶ声も、時々響く。
これから厄介なことに巻き込まれるか否か、俺次第だろう。
浮気を思いとどまらせる文言は、考えて来た。旦那は、明日の朝~午後に帰ってくるとのこと。時間は、十分有る。
それにしてもだ。
土曜日の今日、いつもなら、一日中、小説を書いているだろうになあ。今日は、期待と不安に弄ばれつつ、さまざまシチュエーションを想定して、文言を考えていた。
ごちゃごちゃ思いつつ、団地へと歩いた。
ごちゃごちゃ思っていると、「団地妻の不倫物語」なんてエロDVDのタイトルのようなことも頭に浮かべて、ちょっと笑ってしまった。ダメだ、真剣になろう。
それからすぐに、年上美女から言われた部屋にたどり着いてしまった。
静かな金属扉が、俺の前に佇む。
この扉の向こうには、年上美女の言っていた人妻さんがいるのかと、改めて思う。期待と不安は、湧き上がる。
振り切るように、エイヤと、インターホンを押す。
すると、ドアホンには誰も出ずに、扉越しにチェーンと鍵を外す音が響く。
そして、ゆっくりと扉が開いた。
半開きの扉の向こうに、一人の女性。
長身で、俺の目の前に彼女の顔があった。全てを了解しているような態度でもある。
そして、静かでゆったりした口調で、「入って」と言う。
俺が玄関を入ると、彼女はゆっくりと玄関ドアを閉めた。
俺が靴を脱いでいると、彼女はスリッパを用意して、「上がって」と言う。
俺がスリッパを履くと、彼女は靴を整えてくれた。
それから、「お腹空いてない?」と、聞いてくる。
「いいえ。特には」と、俺は応える。
「もしかして食べて来た?」と彼女。
「いいえ」と答えると、「じゃあ、せっかく用意したんだから、食べて」と言って、俺の先に立って歩き出す。
付いて行くと、玄関を上がってすぐにキッチンが有るが、キッチン前のテーブルには、マグロの刺身やキュウリの糠漬け、炙った油揚げが用意されていた。
彼女は俺を座らせて、キッチンに行って、鍋に火を入れた。
団地デートを断ってさっさと帰ろうと思っていたけど、せっかく用意されたものを拒否するのも良くない。それに、彼女の、客への心遣いや堂々としつつもしなやかな姿に、魅力を感じてしまい、引き込まれてしまった。
食事ならいいだろう。
やがて彼女は、油揚げの味噌汁とごはんを運んで来て、俺の正面の椅子に座った。
俺はとりあえず、味噌汁をすすり、刺身に醤油をかけた。
彼女は、穏やかな表情で、俺を見ている。
裾にクセのある黒髪を、肩程に整えている。二の腕にはそれなりに肉はついて、玄関で見た時には、腰回りもそれなりにふっくらとしている。いたって普通の容姿の、30代半ば程女性。
「旦那さんは、明日帰ってくるんですよね?」、俺は尋ねた。
「そう。出張」
「俺はあなたの友人に、あなたに会うよう言われたんですけど、浮気は良くないのでは?俺にあなたを慰められとも思えないし」
彼女は、ふっと笑う。結局何も応えなかった。
次に何と言って説得しようかと考えて、しばらく黙っていた。
相変わらず、彼女は穏やかな笑顔で、俺を見てくる。
その時。彼女の携帯が鳴った。
彼女は、確認する。そして言った、「ごめんね。旦那が帰ってきたみたい。もう団地の敷地内にいるんだって」。
「え!?」俺は、飛び上がる程に驚いた。焦った。
「来て」と、彼女は立ち上がった。
彼女について行くと、隣の寝室だ。
彼女は押入引き戸を開けると、「入って」という。
俺は仕方なく、押入に上がる。
その間に、彼女は、キッチンに行って戻って来た。「念のためにね」と言って、冷えたペットボトルを俺に授けて、押入の引き戸を閉めた。
真っ暗になった。
すぐに、風の無さによる暑さを、感じ始める。
真っ暗な押入の中で不安を感じつつ、戸の向こうの様子を、音で探った。
しばらくすると、玄関ドアのガチャリという重い金属音とともに「ただいま」という男の声。おそらく旦那だろう。
俺は改めて、問題に直面したことを実感した。
「おかえりなさい、出張じゃなかったの?」と彼女。
「ああ、先方の事情で、電話で契約を受けてくれた。だから、来なくていいって」
「そう。それはよかったね」
「夕食を食べてたのか?」
「ええ、出張だって言うから先に」
「じゃあ、俺も夕食だ。お腹空いてさあ」。
それから、手を洗ったり嗽をしたりの音の後に、プシュッとビール缶を開ける音がして椅子にドサッと座る音。
旦那はくつろぎだしたようだ。このままではまずいぞ。俺は一体、いつになったら出られるのか?
押入の中はムシムシ。既に身体中から汗は浮き出ている。
旦那も暑いはず。風呂でも入らないか?
そんな思いをあざ笑うように、テレビの音がはじまる。旦那らしき男の声で、TVへのツッコミもはじまる。
それから、かなりの時間が過ぎた。テレビ番組もいくつか移り変わった。スマホの時計を見ると、21時。押入に閉じこもってから、三時間も経っている。
汗ぐっしょり。不快感は凄まじい。彼女からいただいたペットボトルも、空になりそうだ。
また、ここまでずっと暇。
緊張感は有るものの、することは何もない。ただただ、外に出るチャンスを伺っているだけ。スマホをいじるものの、じっとり汗をかいて集中できない。動画を見ようにも、イヤホンを付けると、聞き耳を立てられなくなる。
暇問題は大きい。
それにしても…。俺はむなしくもなった。
土曜日の夜と言えば、次回の授業準備をしたり、小説を作成したり、楽しく飲んだりしている。大切な土曜日の夜を、よそ様の団地部屋の押入に潜んで過ごすなんて。
そう思っていると、戸の向こうで、夫婦二人のしゃべり方の雰囲気が、変わった。
はきはきしゃべらず、ぼそぼそ小さい声でしゃべる。俺は、状況は変わったのかと思って、戸に片耳をべったりつけて、聞き取りやすいようにした。
小さな声で、「いいから」「後で」なんて女の甘えたような声。どうやら、夫婦でいちゃいちゃしているのだろう。
あれ?夫婦仲は良い?旦那に浮気されたという話しや仕返しのための浮気をする話しは、どこまで本当なのだろう。何やら、騙されている気もしてきた。
俺、何をやっているんだろう?
その時だ。
戸の向こうで旦那は言った、「飲んでいると、△△のラーメンを食べたくなった。今から行こう」と。
俺は、押入から出られる希望を感じた。
しばらくして、戸の向こうで、ガチャリと玄関ドアの重い金属音がした。それからは、何ら物音はしなくなった。
俺は、戸の向こうの様子を探りつつ、静かに引き戸を開けた。
押入から、キッチンを見通せる。
誰もいない。
俺は、押入を降りた。全身はひんやりした。
冷房の効いていないこの部屋も、暑いはず。でも、三時間も風の通らない押入に籠っていた俺にとって、心地よく感じる。
キッチンに行くと、鍋から湯気がゆらゆらしている。俺の食べかけたご飯は、流し台に置いてある。
俺は蛇口をひねり、水を何杯か飲んで、喉をうるおした。
二人が帰ってきたらまずい。
俺はとっとと部屋を出た。
幸い、廊下に近所の人等はいない。
また、電灯の点いていない真っ暗な棟なので、見つかりにくい
暗い廊下を歩いて、棟を出た。団地の敷地を横切って、バス停にたどり着いた。
だが、団地から駅へ向かう最終バスは、出た後だった。
最終バスが出たからと言って、タクシーは呼びたくない。
わけのわからない一日の締めくくりに、タクシー料金を払わされるなんて、あまりにもバカげている。
俺は意地になった。歩いて帰宅することにした。
上りかけの山道に有る、この団地。平野に有る駅周辺高層ビルの警戒灯を、見通せた。それは、地平線を意識する程に、遠くだった。俺のアパートは、駅周辺高層ビルたちの、さらに向こうに有る。
山道を下る。山に沿った平坦な道を延々と歩く。住宅はまばらに点在するようになった。さらに歩く。住宅の密度は増す。さらに歩く。街はずれとなる。しばらく歩く。賑わう繁華街に。
ここまでに1時間以上かかった。もう22時を過ぎていた。
全身くたくた。足首や付け根は重たい。喉はカラカラだ。
繁華街で寄り道をせず、さらに20分程歩いて、アパートへとたどり着いた。
こんな日はこりごりだ。
アパート玄関をくぐると、共用スペース。全部屋のメールボックスは、並ぶ。帰宅した際のルーティンで、俺は自分の部屋のメールボックスを開けた。
寿司の出前や不動産の紹介等、良く見るちらしたちが入っている。
だが、その中に、今までに見たことのないちらしも有った。アニメ風の狐が3匹、腹を抱えてゲラゲラと笑い転げている絵だ。
狐たちはみんな、色違いのリボンをつけているので、メスの狐だろう。
何の会社なのかどこにも書いてない。絵だけだ。
奇妙なちらしもあるもんだ。
それから、そのちらしは、他のちらしとともに、玄関前廊下に重ねた。
資源回収日になれば、紐でくくる。それまでは、生ごみを包んだり爪切りだったりに、使うことにしている。
それから買い物に出て、夕食。食べながら、一連の流れを振り返る。
年上美女に対して、どう報告すべきだろう?でも、年上美女の連絡先は知らない。また、人妻さんに対して、「挨拶もせずに帰ってすいませんでした」と謝ったりするべきなのだろうか?
結論の出ないまま何日か過ぎた。
まあ、放っておけば良いかな?
そう思っていたが、俺は、人妻さんの魅力にはまっていたのかもしれない。
ふと団地に行ってみようと思い立った。
仕事柄、朝は空いていることも多い。
朝なら、旦那と鉢合わせもしないだろう。まあ、人妻さんは平日朝、働きに出ているのか知らないけど。
或る平日の朝、俺は例の団地に行った。
いきなり、奇妙なことに遭遇した。
この前の棟に入ろうとすると、たまたま通りかかった団地住民の老夫婦に、声をかけられた。
老旦那さんは言う、「その棟には誰もいませんよ。この前、最後の住民は、出て行ったはずだよ」と。
付け加えるように老奥さんも言う、「この棟の付近で、きつねの目撃情報もあったよ。住み着いているかもしれないから、気を付けてね」。
「はあ」と適当に返事をした俺だが、そんなはずはないと思い直す。この前、人妻さんとこの棟の部屋で会ったのだ。
老夫婦の後ろ姿を見送って後、俺は棟へ入った。
すぐに共用スペースが有って、部屋番号を記したメールボックスがズラリと並んでいる。
だが、全てのメールボックスの口は、ガムテープでふさがれている。
老夫婦の言うように、誰も住んでいないのだろう。
俺は、共用スペースを通り過ぎて、人妻さんと会った部屋へ。
玄関扉の前に立つ。インターホンを押す。音は鳴ったものの、誰も出てこない。
俺は棟を出て、棟の周囲を一周した。
ベランダには、何も干されていない。どの部屋もカーテンを設置しておらず、部屋の中は丸見え。ただし、誰もいない。
本当だ。
老夫婦の言うように、誰もいないようだ。狐につままれた気分になった。不気味さすら感じて来た。
でも、妥当な想像もできる。
老夫婦の言っていた「最後の棟住民」こそ、あの人妻さんその旦那さんと考えれば良い。
さて。
団地に居たってすることがないので、帰宅した。
アパート自室に入ると、玄関脇に、この前のちらしが目に付いた。
色違いのリボンを付けたアニメ風の狐が3匹、腹を抱えてゲラゲラと笑い転げている。
以上「深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】」。
関連する話は「妖怪?深夜の或るコンビニにて【怪談】」へ。
他の話は「深夜のコンビニ【ロマン怪奇小説】」へ。
※本小説はフィクションであって、実際にある土地名や団体等とは一切関係ありません。
※本ブログの記事は全て、著作権によって保護されておりますことへ、ご理解のお願いを申し上げます。

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何を飲み食いしたいわけでもない。仕事から解放された気分のままに、ふら~っと店に入る。そんな「当ての無さ」も、楽しみの一つです。
でも、「当ての無さ」に身を任せ過ぎると、いつの間にか日常から遠く遠く離れてしまって、帰り道すら分からなくなってまうことも、有るかもしれませんよ。
この話は、悩める或る男が、仕事帰りの一人居酒屋をきっかけに、不可解現象に巻き込た話です。
(分量は、文庫本換算13ページ程。次の目次をタップ・クリックでジャンプできるので、しおりの代わりにどうぞ。他の怪談怖い話は「本blog全記事の一覧」へ。)
第一章:悶々とする恋愛感情|深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】
或る夏の夕方。
多摩地方の一大都市から数駅離れた住宅街に有る、高架の駅ホームにて、俺(米津秀行・27歳・一応プロ家庭教師)は、次の仕事のため、電車を待っていた。
暑さ、じめじめ、セミのジリジリ鳴き声。夏の様相だ。
とは言え、日差しももうオレンジに柔らかい。昼間に比べると涼しいので、ちょっとは有り難い。
一方で、俺の悶々とした気持ちは、一つ前の仕事のせいで、ヒートアップしていた。
俺は、小説家を目指しつつ、多摩地方で家庭教師として働いていた。
各家庭には、「学生バイトとは違う」等と信頼の高まることも多かった。親御さんから、教育相談を受ける等、距離の近づくことも。
今、仕事を終えたのは、そんな家庭の一つ。
その家庭の、10歳くらい歳上の人妻さんに、俺は恋愛感情のようなものを持ってしまっていた。
もちろん、職業倫理は守る。不倫に発展して訴訟でも起こされたら、払える賠償金も持っていない。
そもそも、その人妻さんは、俺に対して、仕事を逸脱する言動を見せない。特には恋愛感情なんて抱いていないのだろう。
俺の本心は、せっかくの出会いを棒に振るのはもったいない気も。俺から気持ちを伝えずにいられないような。全体としては、俺一人、悶々としているようだ。
やがて、電車が到着、ドアが開く。俺は、ドア前に、邪魔にならないようにしつつ立つ。
次の仕事は、5駅隣だ。
ドア前が閉まって、発車する。
俺は、ぼんやりと、外を眺めた。
高架であって、多摩地方の平地を、地平線へと遠く見通せる。住宅街やスーパーが広がっている。もともとは農村だったのだろう、住宅の合間には、とびとびに広い畑も点在。
それらは、オレンジの日で、穏やかに染まっている。
飛び飛びに、丘も有る。大きな丘も、ちょっとした丘もさまざま。
中には、マンションがいくつも建っている丘も。
例の人妻さんも、あんな所に有るマンションに住んでいる。否応なく思い出してしまう。
思い出さないようにと、違うところに目を移す。
緑の茂丘が目に入る。木々の少ない草原エリアを、黄色っぽい獣が一匹で歩いていた。
あれは、まさか狐?数百メートルは離れているため、はっきりとは言えない。
丘には畑や数件の住宅も有るが、獣の周囲に、人はいない。
目で追っていると、獣は立ち止まって、顔を上げた。その瞬間、目が合った気がした。
まあ、遠くなので実際の目線は解らない。
第二章:一人居酒屋|深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】
その後、住宅街まっただ中の駅で降りて、浪人生の家庭へ。
そして、180分授業。
22時を回ったくらいに、終えた。この授業で、今日の俺の仕事は終わりだ。
駅へ向かいつつ、夏の今、暑さと仕事の疲れは、冷えた炭酸系のお酒を連想させずには、いられない。
今日は、金曜日。居酒屋等で飲んで帰宅しよう。
それから、俺は、自宅アパートへの途中駅、多摩の一大繁華街の駅に降りた。
何を食べたいというのはない。いつまで飲むという計画もない。要するに、当てのない一人飲み。
あちこち店を回るものの、金曜日の夕方だ。駅周辺のビルやらデパート内に、一人客の入れる余地は無い。
23時を過ぎた辺り。
歩き回った末に、駅から大夫離れた古い小ビル2Fに、席の空いている居酒屋を見つけた。入口のメニュー看板を見ると、焼き鳥や焼き魚等、焼く物の多い普通の居酒屋だ。
ここにしよう。
入ると、窓際席に案内された。
暗めの店内で、各テーブルを点々と照らすような灯りの配置。多少お洒落でありつつ、多少怪しさも有る。
客は俺の他に、数組。店員は、かちゃかちゃと食器を運んだりテーブルを拭いたりしているので、さっきまで客はいたのだろう。
窓の外を眺めた。古い中小ビルが並んでいる、二車線程の通り。自宅を目指していると思われる人、駅へ向かって歩いていると思われる人、さまざま。
どちらにせよ、家路だろう。俺はこれから一人飲みだ。この居酒屋の位置は俺にとって、終電を逃しても歩いて帰れる場所。問題無い。
俺は、店員を呼んで、焼き鳥の盛り合わせ、ホッケの塩焼き、お腹が空いていたので、じゃがバター二皿を注文。飲み物は、まずはビールだ。
それから、スマホで野球の結果を見たり、考古学雑誌オンライン版を見たり、小説案を考えたり、そしてあの魅力的な人妻さんのことを思い出したり。
時間が過ぎるのは早かった。すぐに0時を回る。他のテーブルも、一組また一組と退店していて、客は俺のみ。
居酒屋メニューでは一向に、お腹はいっぱいにならない。ラーメン屋にでも行こうと、立ち上がろうとした。
その時だ。
店員の「いらっしゃいませ。お一人様で」という声が響く。
そして、きっちりとしたネイビースーツ姿の美女が、姿を現す。俺より少し年上っぽい。
おっと。
俺は、浮かせた腰を、落ち着けた。
店内には、俺と一人のみの年上美女だけだ。
まあ、特に何事も無いだろうけど、怪しさ有る店内で年上美女と二人だけ。その雰囲気を味わえるだけでも、お得だ。
第三章:危険な出会い|深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】
年上美女は、俺の斜め前方席へと案内された。
それから俺は、年上美女をチラ見しつつ、スマホをいじるふりをしていた。
スカートから伸びる締まった脚。危険な妄想は止まらない。
驚くことに、年上美女もまた俺を意識しているようだった。俺が年上美女の顔をチラ見すると、視線が合うことも多いのだ。
これは、何かを期待しても良いのか?俺は居座るために、店員を呼んで小皿と芋焼酎のソーダ割りを注文。
注文してから年上美女を見る。また目が合った。今度は、口元をにっこりほほ笑んできた。
俺はどう対応すれば良いのか解らず、ぎこちなく笑って軽く頭を下げた。
次に年上美女と目が合ったらどうすれば良い?
話しかけようか?
何の話しをする?
頭の整理が付くまで年上美女の方を見ないようにしたが、この手のことで、頭の整理は付くことはない。
一方で、年上美女がこちらを見ているという視線は、大いに感じた。プレッシャーにもなった。
しばらくして、店員が、年上美女のテーブルに料理を運んできた。
年上美女は、「窓際に移ってもいい?」と店員に聞く。
「どうぞ」という店員の声。
そして、年上美女は、俺の隣の席に。後に続く店員は、その席に料理を置いて、厨房に引っ込んだ。
店員が厨房に引っ込むと、年上美女は、俺に「どうも」と言ってくるので、俺はスマホをいじるふりを止めざるを得ず、顔を上げる。年上美女は、ほほ笑んで来た。俺は、「え?ああ…はい」なんて言いながら、頭を下げる。
彼女は、「このお店は、油揚げがおすすめよ」と続ける。
彼女のテーブルに、油揚げを炙っただけのもの、出汁醤油をかけたもの、ピザ風のもの、バター醬油のもの、などなど油揚げのフルコースだ。
俺がそれらを眺めていると、「食べていいよ。一人じゃ食べきれないから」と彼女。
まさか彼女の方から話しかけてくるとは。
整理の付いていない俺の頭は、余計にぐしゃぐしゃになった。とりあえず、「…この後、俺のテーブルに串焼きが来るんでどうぞ」とのみ、応える。
「じゃあさあ、そっちのテーブルに移るね」と言い、彼女は俺のテーブルに皿を移して乗り込んで来た。
その後、俺は年上美女と、一つテーブルでいろいろしゃべった。互いの仕事のことやら好きなお酒の銘柄等々。
楽しくなってきた。深い話しもできそうな雰囲気になってきた。酔った勢いだって有ったろう。俺は愚かにも、「魅力的な人妻さんに悶々としている」なんて言ってしまった。
年上美女は、不快な顔をせずに、笑いながら聞いてくれた。
そして、一通り聞いてくれた後に言ったのだ、「そんな君に、人妻さんを紹介してあげようか?」と。
「え?」以外に、俺は応えられなかった。
黙っている俺に、年上美女は続ける、
「友人にいるの。旦那に浮気されて、怒り心頭だったけど、許す代わりに、自分も一度浮気するって。
それでさあ、その彼女の好みって、君のような人なんだ。君をはじめて見た時からそう思ってたのよ」。
言われた俺は、期待もしてしまって、すぐに拒否をできなかった。それで、挨拶のように、「そんな。冗談言わないでくださいよ」とのみ言った。
年上美女は続ける、「まあいいでしょ。彼女とデートして、慰めてあげてよ」と。
仕事上果たせぬ恋心を抱えている俺。年上美女のことばに、人妻さんと遊べる期待は、湧き上がってきた。
当然ながら、同時に迷いも湧き上がる。浮気相手として訴えられたらどうする?
即答できずにいると、年上美女は「じゃあ決まりね」と言い、スマホを操作する。その女性に連絡しているのだろう。
まずい。俺の心は決まっていないのに。
俺は、「待ってくださいよ」と身を乗り出して、年上美女からスマホを取り上げようとする。年上美女は、俺の手をふざけながら払いのけたりして、取り合わない。
しばらくして、「じゃあ明日の夕方に○○団地ね」と言う。
いきなりの団地!?
その後。俺は当然、年上美女に断りを入れ続けた。年上美女は、「遊ぶチャンスは明日のみ」や「断ったら彼女(その人妻さん)は落ち込む」「彼女を立ち直らせて欲しい」なんて言うのだ。
結局は、「俺がその人妻さんと会って浮気はいけないと諭す」、で決着した。
仕事帰りの一人居酒屋のせいで、妙なことに巻き込まれてしまった。
第四章:山裾の団地にて怪奇|深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】
その夕方(日付は変わらず)。
俺は、居酒屋近くのバス停で、乗車した。後ろの方の席に着く。
俺は、これから浮気をするのだろうか?期待と不安とないまぜだ。だが、その人妻さんの暮らす団地は、市街地を抜けた住宅街をも抜けたその先の山裾に有る。到着までは、時間が有る。多少、余裕も有る。
バスは、信号に引っかかったり、駐停車中の車をかわしたり、停車と発進とを、不規則に繰り返していた。
その内に俺は、うたた寝をした。
それから、ふと気が付くと、バスはスムーズに走っている。
窓からの眺めは、街のごちゃごちゃでは無い。ビルも、住宅も、信号も、時々点在する程度の二車線道路だ。
俺は、首を前に向けて、運転席の大きな窓を見通した。山が迫っている。さらに、その山裾に、5棟程の集合団地が見える。
俺の眠気は、ふっとんだ。
バスのアナウンスが有って、俺は降車ボタンを押した。
バスは停車。ドアが開く。ついに、団地前のバス停に降り立った。
バスは、山をさらに奥へと、出発する。俺は、その背中を見送る。遠くのカーブを曲がって、見えなくなった。
時刻は、18時を回っている。オレンジ色の空では、紫色のちぎれぐも雲が流れている。
風が吹く。迫る山の木々はザワザワ言う。セミの声は、うるさいとも感じないくらいに当たり前に続く。時々、鳥の声も響いた。草の青臭い匂いは、夏の湿気や暑さに混じって鼻をつつく。
街から離れて、ずいぶんと遠くまで来た気分だ。
視線を、道路を挟んで反対に移す。
並ぶ銀杏の緑の葉の間から、団地の白い棟は見える。子どもの遊ぶ声も、時々響く。
これから厄介なことに巻き込まれるか否か、俺次第だろう。
浮気を思いとどまらせる文言は、考えて来た。旦那は、明日の朝~午後に帰ってくるとのこと。時間は、十分有る。
それにしてもだ。
土曜日の今日、いつもなら、一日中、小説を書いているだろうになあ。今日は、期待と不安に弄ばれつつ、さまざまシチュエーションを想定して、文言を考えていた。
ごちゃごちゃ思いつつ、団地へと歩いた。
ごちゃごちゃ思っていると、「団地妻の不倫物語」なんてエロDVDのタイトルのようなことも頭に浮かべて、ちょっと笑ってしまった。ダメだ、真剣になろう。
それからすぐに、年上美女から言われた部屋にたどり着いてしまった。
静かな金属扉が、俺の前に佇む。
この扉の向こうには、年上美女の言っていた人妻さんがいるのかと、改めて思う。期待と不安は、湧き上がる。
振り切るように、エイヤと、インターホンを押す。
すると、ドアホンには誰も出ずに、扉越しにチェーンと鍵を外す音が響く。
そして、ゆっくりと扉が開いた。
半開きの扉の向こうに、一人の女性。
長身で、俺の目の前に彼女の顔があった。全てを了解しているような態度でもある。
そして、静かでゆったりした口調で、「入って」と言う。
俺が玄関を入ると、彼女はゆっくりと玄関ドアを閉めた。
俺が靴を脱いでいると、彼女はスリッパを用意して、「上がって」と言う。
俺がスリッパを履くと、彼女は靴を整えてくれた。
それから、「お腹空いてない?」と、聞いてくる。
「いいえ。特には」と、俺は応える。
「もしかして食べて来た?」と彼女。
「いいえ」と答えると、「じゃあ、せっかく用意したんだから、食べて」と言って、俺の先に立って歩き出す。
付いて行くと、玄関を上がってすぐにキッチンが有るが、キッチン前のテーブルには、マグロの刺身やキュウリの糠漬け、炙った油揚げが用意されていた。
彼女は俺を座らせて、キッチンに行って、鍋に火を入れた。
団地デートを断ってさっさと帰ろうと思っていたけど、せっかく用意されたものを拒否するのも良くない。それに、彼女の、客への心遣いや堂々としつつもしなやかな姿に、魅力を感じてしまい、引き込まれてしまった。
食事ならいいだろう。
やがて彼女は、油揚げの味噌汁とごはんを運んで来て、俺の正面の椅子に座った。
俺はとりあえず、味噌汁をすすり、刺身に醤油をかけた。
彼女は、穏やかな表情で、俺を見ている。
裾にクセのある黒髪を、肩程に整えている。二の腕にはそれなりに肉はついて、玄関で見た時には、腰回りもそれなりにふっくらとしている。いたって普通の容姿の、30代半ば程女性。
「旦那さんは、明日帰ってくるんですよね?」、俺は尋ねた。
「そう。出張」
「俺はあなたの友人に、あなたに会うよう言われたんですけど、浮気は良くないのでは?俺にあなたを慰められとも思えないし」
彼女は、ふっと笑う。結局何も応えなかった。
次に何と言って説得しようかと考えて、しばらく黙っていた。
相変わらず、彼女は穏やかな笑顔で、俺を見てくる。
その時。彼女の携帯が鳴った。
彼女は、確認する。そして言った、「ごめんね。旦那が帰ってきたみたい。もう団地の敷地内にいるんだって」。
「え!?」俺は、飛び上がる程に驚いた。焦った。
「来て」と、彼女は立ち上がった。
彼女について行くと、隣の寝室だ。
彼女は押入引き戸を開けると、「入って」という。
俺は仕方なく、押入に上がる。
その間に、彼女は、キッチンに行って戻って来た。「念のためにね」と言って、冷えたペットボトルを俺に授けて、押入の引き戸を閉めた。
真っ暗になった。
すぐに、風の無さによる暑さを、感じ始める。
真っ暗な押入の中で不安を感じつつ、戸の向こうの様子を、音で探った。
しばらくすると、玄関ドアのガチャリという重い金属音とともに「ただいま」という男の声。おそらく旦那だろう。
俺は改めて、問題に直面したことを実感した。
「おかえりなさい、出張じゃなかったの?」と彼女。
「ああ、先方の事情で、電話で契約を受けてくれた。だから、来なくていいって」
「そう。それはよかったね」
「夕食を食べてたのか?」
「ええ、出張だって言うから先に」
「じゃあ、俺も夕食だ。お腹空いてさあ」。
それから、手を洗ったり嗽をしたりの音の後に、プシュッとビール缶を開ける音がして椅子にドサッと座る音。
旦那はくつろぎだしたようだ。このままではまずいぞ。俺は一体、いつになったら出られるのか?
押入の中はムシムシ。既に身体中から汗は浮き出ている。
旦那も暑いはず。風呂でも入らないか?
そんな思いをあざ笑うように、テレビの音がはじまる。旦那らしき男の声で、TVへのツッコミもはじまる。
それから、かなりの時間が過ぎた。テレビ番組もいくつか移り変わった。スマホの時計を見ると、21時。押入に閉じこもってから、三時間も経っている。
汗ぐっしょり。不快感は凄まじい。彼女からいただいたペットボトルも、空になりそうだ。
また、ここまでずっと暇。
緊張感は有るものの、することは何もない。ただただ、外に出るチャンスを伺っているだけ。スマホをいじるものの、じっとり汗をかいて集中できない。動画を見ようにも、イヤホンを付けると、聞き耳を立てられなくなる。
暇問題は大きい。
それにしても…。俺はむなしくもなった。
土曜日の夜と言えば、次回の授業準備をしたり、小説を作成したり、楽しく飲んだりしている。大切な土曜日の夜を、よそ様の団地部屋の押入に潜んで過ごすなんて。
そう思っていると、戸の向こうで、夫婦二人のしゃべり方の雰囲気が、変わった。
はきはきしゃべらず、ぼそぼそ小さい声でしゃべる。俺は、状況は変わったのかと思って、戸に片耳をべったりつけて、聞き取りやすいようにした。
小さな声で、「いいから」「後で」なんて女の甘えたような声。どうやら、夫婦でいちゃいちゃしているのだろう。
あれ?夫婦仲は良い?旦那に浮気されたという話しや仕返しのための浮気をする話しは、どこまで本当なのだろう。何やら、騙されている気もしてきた。
俺、何をやっているんだろう?
その時だ。
戸の向こうで旦那は言った、「飲んでいると、△△のラーメンを食べたくなった。今から行こう」と。
俺は、押入から出られる希望を感じた。
しばらくして、戸の向こうで、ガチャリと玄関ドアの重い金属音がした。それからは、何ら物音はしなくなった。
俺は、戸の向こうの様子を探りつつ、静かに引き戸を開けた。
押入から、キッチンを見通せる。
誰もいない。
俺は、押入を降りた。全身はひんやりした。
冷房の効いていないこの部屋も、暑いはず。でも、三時間も風の通らない押入に籠っていた俺にとって、心地よく感じる。
キッチンに行くと、鍋から湯気がゆらゆらしている。俺の食べかけたご飯は、流し台に置いてある。
俺は蛇口をひねり、水を何杯か飲んで、喉をうるおした。
二人が帰ってきたらまずい。
俺はとっとと部屋を出た。
幸い、廊下に近所の人等はいない。
また、電灯の点いていない真っ暗な棟なので、見つかりにくい
暗い廊下を歩いて、棟を出た。団地の敷地を横切って、バス停にたどり着いた。
だが、団地から駅へ向かう最終バスは、出た後だった。
最終バスが出たからと言って、タクシーは呼びたくない。
わけのわからない一日の締めくくりに、タクシー料金を払わされるなんて、あまりにもバカげている。
俺は意地になった。歩いて帰宅することにした。
上りかけの山道に有る、この団地。平野に有る駅周辺高層ビルの警戒灯を、見通せた。それは、地平線を意識する程に、遠くだった。俺のアパートは、駅周辺高層ビルたちの、さらに向こうに有る。
山道を下る。山に沿った平坦な道を延々と歩く。住宅はまばらに点在するようになった。さらに歩く。住宅の密度は増す。さらに歩く。街はずれとなる。しばらく歩く。賑わう繁華街に。
ここまでに1時間以上かかった。もう22時を過ぎていた。
全身くたくた。足首や付け根は重たい。喉はカラカラだ。
繁華街で寄り道をせず、さらに20分程歩いて、アパートへとたどり着いた。
こんな日はこりごりだ。
アパート玄関をくぐると、共用スペース。全部屋のメールボックスは、並ぶ。帰宅した際のルーティンで、俺は自分の部屋のメールボックスを開けた。
寿司の出前や不動産の紹介等、良く見るちらしたちが入っている。
だが、その中に、今までに見たことのないちらしも有った。アニメ風の狐が3匹、腹を抱えてゲラゲラと笑い転げている絵だ。
狐たちはみんな、色違いのリボンをつけているので、メスの狐だろう。
何の会社なのかどこにも書いてない。絵だけだ。
奇妙なちらしもあるもんだ。
それから、そのちらしは、他のちらしとともに、玄関前廊下に重ねた。
資源回収日になれば、紐でくくる。それまでは、生ごみを包んだり爪切りだったりに、使うことにしている。
それから買い物に出て、夕食。食べながら、一連の流れを振り返る。
年上美女に対して、どう報告すべきだろう?でも、年上美女の連絡先は知らない。また、人妻さんに対して、「挨拶もせずに帰ってすいませんでした」と謝ったりするべきなのだろうか?
結論の出ないまま何日か過ぎた。
まあ、放っておけば良いかな?
そう思っていたが、俺は、人妻さんの魅力にはまっていたのかもしれない。
ふと団地に行ってみようと思い立った。
仕事柄、朝は空いていることも多い。
朝なら、旦那と鉢合わせもしないだろう。まあ、人妻さんは平日朝、働きに出ているのか知らないけど。
或る平日の朝、俺は例の団地に行った。
いきなり、奇妙なことに遭遇した。
この前の棟に入ろうとすると、たまたま通りかかった団地住民の老夫婦に、声をかけられた。
老旦那さんは言う、「その棟には誰もいませんよ。この前、最後の住民は、出て行ったはずだよ」と。
付け加えるように老奥さんも言う、「この棟の付近で、きつねの目撃情報もあったよ。住み着いているかもしれないから、気を付けてね」。
「はあ」と適当に返事をした俺だが、そんなはずはないと思い直す。この前、人妻さんとこの棟の部屋で会ったのだ。
老夫婦の後ろ姿を見送って後、俺は棟へ入った。
すぐに共用スペースが有って、部屋番号を記したメールボックスがズラリと並んでいる。
だが、全てのメールボックスの口は、ガムテープでふさがれている。
老夫婦の言うように、誰も住んでいないのだろう。
俺は、共用スペースを通り過ぎて、人妻さんと会った部屋へ。
玄関扉の前に立つ。インターホンを押す。音は鳴ったものの、誰も出てこない。
俺は棟を出て、棟の周囲を一周した。
ベランダには、何も干されていない。どの部屋もカーテンを設置しておらず、部屋の中は丸見え。ただし、誰もいない。
本当だ。
老夫婦の言うように、誰もいないようだ。狐につままれた気分になった。不気味さすら感じて来た。
でも、妥当な想像もできる。
老夫婦の言っていた「最後の棟住民」こそ、あの人妻さんその旦那さんと考えれば良い。
さて。
団地に居たってすることがないので、帰宅した。
アパート自室に入ると、玄関脇に、この前のちらしが目に付いた。
色違いのリボンを付けたアニメ風の狐が3匹、腹を抱えてゲラゲラと笑い転げている。
以上「深夜の一人居酒屋【ロマン怪奇小説】」。
関連する話は「妖怪?深夜の或るコンビニにて【怪談】」へ。
他の話は「深夜のコンビニ【ロマン怪奇小説】」へ。
※本小説はフィクションであって、実際にある土地名や団体等とは一切関係ありません。
※本ブログの記事は全て、著作権によって保護されておりますことへ、ご理解のお願いを申し上げます。

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